ひとりひとりの個性に価値があるのではなく、ひとりひとりに個性が存在しているということに価値がある

そういう意味では、少し前に大ヒットしたSMAPの『世界にひとつだけの花』の歌詞って、かなり残酷だ。
 この歌のなかでは“ナンバーワンにならなくても特別なオンリーワン”が手放しで礼賛されている。この歌が大ヒットしたのは2003年、個性礼賛の気分がまだまだ世の中に蔓延していた時期だ。だけど、この歌に勇気づけられながら社会に出て行った人達が遭遇したのは、歌詞とは真逆の現実だったわけだ。
 「ナンバーワンまで上りつめたエリート個性だけが、特別なオンリーワンとして認められる社会。」
 「使える個性」「買い手のつきそうな個性」だけに買値がつくような人間市場。
 没個性なテンプレートに自分自身を適合させなければならない職場や職種。
 “普通の花屋で売られる花”になる為には、過度に個性的でありすぎてはいけない。むしろ、ある程度没個性で、大きすぎず、小さすぎず、色も形もテンプレートをはみ出しすぎない花でなければならない。分かりやすく、愛しやすく、選ばれやすい花だけが、良い花として選別され買われていく。売り物にならないような、逸脱した個性を持った花は市場に並ぶことさえ許されない。

『使えない個性は、要らない個性。』 - シロクマの屑籠

 これはSMAPさんの(というかマッキーの)メッセージを誤読しています。ちなみに「世界にひとつだけの花」でググると一番上にSMAPu¢ŠE‚ɂЂƂ‚¾‚¯‚̉ԁv”á”»が来るんですね。大ヒット漫画「ドラゴン桜」でも「ナンバーワンにならなくていいオンリーワンになれだぁ?オンリーワンなんてのはその分野のナンバーワンのことだろうが」といった批判がされています。この手の批判はやり尽くされていて、いまどき再燃しているのも不思議なくらいです。この批判自体がすでにありふれた言葉を盲目にコピーして並べ立てただけの非個性的なものになっています。id:p_shirokumaさんだけが非個性的だと言うつもりはなくて、「どこかからコピーしてきた言葉で話す人」はネット上にも日常にもあふれています。
 念のために書いておくと、コピーすること自体が悪いのではありません。自分の言葉で語りなおせないことが問題なのであり、非個性的なのです。言葉は自分で一度噛み砕いてみてから言い直さなくてはいけません。たとえば、ネットに「文系はカス」と書いてあるのを見て、いきなり信じてしまう中学生、これはダメな例です。
 では「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」「自分の花を咲かせるためだけに一生懸命になればいい」とはどういうことなのか?簡単です。「どこかからコピーしてきた言葉ではなく、自分の言葉で語れる人になれ」ということです。
 昔、村上龍の小説「希望の国エクソダス」に、自分が今まで「誰がこの国をダメにしたんだ、誰が責任を取ってくれるんだ」という、まるで自分が「この国」に無関係で、超越的な立場にいるかのような「無責任」な記事を垂れ流してきたことに気づき、恥じる記者が出てきましたが、

『使えない個性は、要らない個性。』

 

 この、目を覆いたくなるような娑婆の現実から敢えて目を逸らして、飽くなき個性の肯定を叫んだ人達の功罪や、いかに。

『使えない個性は、要らない個性。』 - シロクマの屑籠

 と、誰に向かって罪を問うているのかわからない結びだと、書き手も「目を覆いたくなるような娑婆の現実から敢えて目を逸らし」た人たちと大差ありません。
 もちろん個性は、『使えない個性は、要らない個性。』 - シロクマの屑籠のように、商品価値だけで捉えられるものではありません。 この常識的な前提を無視して、さも「個性が商品価値だけで測れる」ことが自明であるかのように話を進めることは、意味がありません。
 そもそも、個性というのは究極的には個体差です。個体差がなければ生物は環境の変化に耐え切れず絶滅してしまいます。ひとりひとりの個性に価値があるのではなく、ひとりひとりに個性が存在しているということに価値があるのです。