日本人にとって講義をする人はテレビだから仕方ない

2009-03-06

シンポジウムなどで、質疑応答の機会がわざわざ設けられているのに、なかなか質問がでない。質疑応答は大抵低調だったりする。

2009-03-06

 id:hyoshiokさんのエントリを読んで、あの「バカの壁」を書いた養老さんが書いていたことを思い出した。養老さんは、大学で講義をするとき、学生が集中して聞いておらず、反応が悪いと、「どうせ俺はテレビだもんな」と言うらしい。これはものごとの本質を言い当てていると思う*1。どうも、日本人にとって、講義をする人はテレビであるらしい*2
 講義をする人はテレビであるから、こちらが反応を返す必要もない。上のエントリの例でも、シンポジウムで講演している人たちはテレビだから、質疑応答の機会が設けられても、逆にとまどってしまう。ふだん、テレビに向かって盛んに質問している人はとまどわないかもしれないが。
 日本人の、「講演している人はテレビ」だという感覚*3は、「学校・予備校の授業」によって、幼いころから刻み込まれているものだから、中々消えない。クラス全体に対してインタラクティブな授業はごくごく少数しか存在しない*4
 日本の学校の教師の多くは、エネルギーを極力使わない授業をする。生徒を授業に参加させると、それを受け止め、脱線しないように気を配り、なおかつ教科書の内容を消化するために、莫大なエネルギーを必要とする。教師だって人間だから、楽をしたい。「省エネ」授業は今日も全国の学校で行われている*5
 また、日本の学校では「質問する人」→「内容が理解できていない人」という偏見が長い間存在している。この偏見が発言によって授業に参加しようとする生徒を減らし、教師のテレビ化を進めている。「質問する人」→「さらなる知識を求める人」というプラスイメージに転じる日はまだまだ遠い。

*1:テレビという言葉を、「あちら側からは干渉してこない」などなど、ほかの言葉を並べて書き換えることもできると思うが、やはり「テレビ」と言ったほうがニュアンスが伝わる。この点養老さんはすごい(養老さんが最初に考えたかは不明だが)。養老さんのエッセイは口述が多いのもあってもどかしい思いをする本も多いが、この表現は良かった

*2:私は外国の大学で授業を受けたことはなく、英語圏で高校に相当する学校の授業を受けたことがあるだけなので、日本だけとは言えないが、とりあえず日本については正しいと思う

*3:さらに、日本人の一部には、あらゆる人・ことがテレビに見えている人もいると思われる。災害の現場に立ち会ったとき、まずケータイを取り出して写メる人にとって災害はテレビなのだろうし

*4:ドラマ「金八先生」の国語の授業はクラス全体が参加する授業というものに近いと思う、あれが脚本なしでできたらいいのに

*5:大学の教授にも、自分の研究にエネルギーを注ぎたいばかりに、省エネ授業を極めた人は多い。よく、海外の大学の授業はエキサイティングだと動画で紹介されるが、面白い授業には膨大な準備コストがかかっているはずである。研究に費やす時間は十分とれているのだろうか?