おっぱいバレーの結末についての私案

http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20090305#p1
 なるほどid:zoot32さんの議論は精密かつ性蜜である。しかし私はそこにひとつの議論の余地を見つけた。言ってしまえばid:zoot32さんのおっぱいの見せ方についての議論は甘いのだ。id:zoot32さんの想定しているおっぱいの見せ方は以下の2通りである。

  1. 試合に勝った生徒たちにおっぱいを見せる
  2. 試合に負けたのでおっぱいは見せない

 一見これだけでも十分に見える。しかし、綾瀬はるかのおっぱいの見せ方として私個人としては最も効果的だと考える方法が抜け落ちている。それは次の方法である。
  3.試合に負けたがおっぱいを見せる
 これである。結果を残せなかった男を社会は認めてくれない。そんな男を優しく受け入れてくれるのは母親だけである。そもそもこの映画は綾瀬はるかが女教師として男子生徒を導く物語である。教師、つまり広義の年上属性を付加された綾瀬はるかに求められているのは、究極的には母性ではないか。そこで綾瀬はるかが、母性の象徴ともいえる豊満なおっぱいを、負けて傷ついた男たちを優しく慰め、受け入れつつ、見せる。夢敗れ、眼福にあずかることができないと思っている男たち、絶望に落ちた男たちに、天使のごとく許容の精神(とおっぱい)を見せる。スクリーンの前の男たちは、完全に生徒たちに感情移入し、敗北により打ちのめされた心に染み入るおっぱいを堪能するであろう。このためのシチュエーションとしては、「試合に負けたがおっぱいを見せる」に勝るものはないと思う。勝って見せるのではいけない。勝った瞬間に、観客の心の中でもおっぱいが約束されてしまい、結局おっぱいが見られなかったことへの「がっかり感」が残るであろう。どうせ見せないからこそ、一度おっぱいへの希望を断ち切っておいて、あとから逆転する演出が望まれると思うのである。
http://d.hatena.ne.jp/S2D2/20090306/p1