こうして頭のいい子どもはスポイルされる

 入試改革、教育改革の話。まず毎日新聞の社説から。

だが、より根本の問題は学習意欲や動機付けだ。日本の子供たちが勉強を楽しんだり、将来の夢と結びつけたりすることが相対的に希薄なことは国際比較調査に表れている。入試改革は単に受験知識を増加させればよいのではなく、適性や意欲、好奇心などを土台にする基礎学力をより的確に見いだすものへ変わらなければ真の改善には遠い。

http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20090118ddm005070002000c.html

 日本の子どもの夢ランキングで見てみると、小学生が今やっている勉強と結び付けられる職業は「学者」と「学校の先生」くらいだろう。「野球選手」と結び付けさせようとすると、「海外に行って英語ができなかったら困るだろ」くらいしか言えないのではないか。むしろ、「○○になってもこの教科は必要だよ」という論法は、ほかの教科は要らないと言っているのと同じなので、意味がない。そして、実際、日本の野球選手が英語を知らなかったところで支障はない。そもそも、「これできなかったら野球選手になっても困るよ」とは、動機付けではなく、ただの脅しだ。
 また、プロの面接官でも、(当然小学生よりはるかに人格・特性が固まってきている)大学生や社会人相手にその人の適性を見抜くのは難しいのだから、ただの教員が子どもの適性を見抜けるとは思わない。というか、男子の夢1位、2位がスポーツ選手なのだから、適性を重視すると、「いかにうまくスポーツ選手を諦めさせるか」という話になる。プロになれるのはごくごく少数だ。
 夢や適性などに基づいた教育というのは、結局ただの口当たりのいい言葉に過ぎない。そこに実体は全くない。これは現実を変える力をもたない社説だ。
 また、内田樹先生のこの社説への反応の中に、的確な指摘があった。

子供たちの学習意欲と動機付けを阻害しているのは、学ぶことそれ自体には何の意味もなく、意味があるのは競争と選別であるというイデオロギーそのものである。

入試「改革」のご提言について - 内田樹の研究室

 本当に、「学ぶことそれ自体には何の意味もなく、意味があるのは競争と選別であるというイデオロギー」もしくは「学力によって競争に打ち勝つことは卑しいというイデオロギー」を子どもに説く親・教師・社会が最大の原因だ。
 まず、どちらのイデオロギーも、学生時代に勉強ができなかった人、学歴コンプレックスのある人には「ウケがいい」ことが問題だ。自分が気にしている欠点が帳消しになるわけだから、この言葉は最高の癒しとして働く。
 日本国民の大半はこの言葉が好きだからタチが悪い。親もメディアも教師も言っていることを、子どもが鵜呑みにしないはずはない。こんな状況でどうして主体的に学ぼうとする子が増えるのか?
 そして一番悪質なのが、これらのイデオロギーは「頭のいい」子どもをスポイルするということだ。勉強がダントツでできるような「頭のいい」子は、逆にいじめられたりする。幅広い世代に人気のドラマ「ごくせん」でも、進学校の生徒は覆面をして夜な夜な市民をバットでリンチし、不良高校の生徒は公共のルールは守らず犯罪は犯すが仲間思いでイイやつら、という演出が堂々とされている。これが堂々と放送されていること、そして人気なことが、日本が悪いイデオロギーに染まっていることを表している。
 結局、一番効率的な「教育改革」は、ひとりひとりの親が、これらのイデオロギーを子どもに伝えないようにすることだろう。「人を殺してはいけない」のと同様に、「学ぶことは尊い」ということを理屈ぬきで誇りを持って言えるように初期から教育すべきだ。学ぶことは本来快感をともなう行為なのだから。大人も子どもも斜に構えて「ベンキョーなんてイミねーよ」って言ってる「一億総中2病社会」は、はたから見ると相当カッコ悪いし、無理している。